波佐見が、心に残る場所であるのはなぜでしょうか。長崎の、人里離れた山と川に抱かれる谷あいに、四百年の歴史を持つ焼きものの町があります。ここでは、人も自然も、ものも文化も、すべてが編み合わさるようにつながっています。誰もが歩調を合わせ、一つの製品を仕上げるまでに、何十もの手が関わります。けれど、そのつながりの一つが途切れたら、何が起こるのでしょうか。私たちは、波佐見にとって伝統工芸産業を守るとはどういうことなのか、そして、新たな発想やコミュニティの広がりが、長い歴史を持つ産業の新たな出発に、なぜ欠かせないのかを探りました。

Chapter 1/6
波佐見:静かな豊かさ

春先の暖かな日、私たちは長崎県北部の小さな町、波佐見に到着しました。人口はおよそ一万四千人。地元の人によると、町の形は猫の顔に似ているそうです。山々に囲まれた波佐見は、県内で唯一、海に面していない町です。東京で暮らす私たちには、どこまでも広々と感じられ、着いた途端に懐かしさが込み上げてきました。道ですれ違う人たちが挨拶を交わす。その親しみやすさは、都会ではいつの間にか遠ざかっていたものでした。

青々とした麦畑の間を車で走ると、四百年続く窯業の痕跡があちこちに見えてきました。築百年の家々、レンガの煙突、かつての窯元の色あせた看板。波佐見には大きな観光名所がなく、特に目的もなく訪れる人は多くありません。それでも、ここに留まりたくなる理由は、いくつもあります。華やかさはなく、そうあろうともしていません。その代わり、人々にも、仕事にも、周囲の自然にも、ほかではなかなか出会えない、静かな豊かさが満ちています。

日本の日用食器の約17パーセントを生産するこの町について書いてほしいと依頼されたとき、私はどんな場所なのか、ある程度想像できているつもりでした。けれど、波佐見は世間一般に知られている姿には収まりきらない場所のようです。何世紀もの間、この地の器は「有田焼」の名でつくられ、売られてきました。「波佐見焼」として独自に認められるようになったのは、2000年代に入ってからのことです。

波佐見は、単なる焼きものの町ではないのかもしれません。ほかの地域から少し距離を置くこの町は、世代を超えて受け継がれる技術と、高度に専門化された「分業制」によって、その名を築いてきました。その成功を支えているのは、職人の技だけではありません。地域のつながり、困難を乗り越える力、そして新しい人や発想を迎え入れる姿勢によって、この産業は形づくられているのです。

Chapter 2/6
波佐見の風景

波佐見の風景

波佐見には、焼きものづくりに欠かせない三つの恵みがそろっていました。粘土へと加工される原料の陶石を産する周囲の山々、水をもたらす川、そして薪となる森の赤松。この土地で焼きものをつくることが、町にとって初めから定められた仕事だったかのように感じられました。もちろん、町自身がそれを知るはずもありません。利益のために人が意図的に環境を整えたわけでもないのに、必要なものがこれほど自然にそろっている。そのことに驚き、にわかには信じがたいほどでした。

私は、自然の中にある陶石を見たことがありませんでした。おそらく、多くの人もそうではないでしょうか。私たちの眼下の川には、苔に覆われ、灰色の斑点が混じる、ごつごつとした白い岩がありました。それ自体が一つの風景に思えるほどの大きさです。その姿は、飛行機から見下ろす、畑がつぎはぎのように広がる景色にそっくりでした。それが陶石でした。この一帯に、静かに横たわる数多くの石の一つです。川の水は澄みきっていて、水中にどっしりと根を下ろした石の底まで、見えそうなほどでした。川の流れや雨風によって、何百年もかけて形づくられた石。そこには、すべてを知っているかのような佇まいがありました。

それは、運命の巡り合わせのように感じられました。何世紀にもわたり、波佐見の人々が自然に逆らうのではなく、自然に寄り添いながら暮らしと生業を育んできたことが、ごく自然な成り行きに思えたのです。

波佐見の中心部からわずか数分の場所にある中尾山は、江戸時代から波佐見焼の大量生産を支えてきた地域の一つです。今では多くの家が空き家になっていますが、かつてここで栄えた焼きものの町の姿を思い描くことができました。器の出荷に使われていた、使い込まれた緑色の通い箱。残された石膏型。小道のあちこちに散らばる、割れた皿のかけら。現在、中尾山に暮らす人はおよそ百人にすぎませんが、かつては窯業に携わる人々であふれていました。家々は、隙間がほとんどないほど密集して建てられています。その配置は、長い木の板に粘土や型、完成した器を載せ、狭い路地を縫って工房から工房へと運ぶのに都合がよかったのです。

中尾山の見晴らしのよい場所からは、遠くに世界最大級の登り窯の跡が見えました。かつて中尾山の人々は皆、同じ窯で器を焼いていました。この窯には、地域で分かち合い、共に働く精神が表れています。中尾上登窯跡は全長約160メートルに及び、かつては33もの焼成室を備えていました。登り窯とは、その名のとおり、山の斜面に沿って焼成室が階段状に連なる窯のことです。下の焼成室から上へと熱が効率よく伝わり、窯全体の温度を均一に保ちやすくなります。一度にできるだけ多くの器を焼くために、大量生産の時代にふさわしい工夫でもありました。

登り窯の構造は、波佐見にもともとある地形を生かし、自然の恵みと共に働くものでした。そこから生まれる器には、魔法のような魅力があります。焼き上がりの色や表情は、ひとえに自然の働きに委ねられているのです。

登り窯のことや、その築き方を知るにつれ、途方もない労力が必要だったことが伝わってきます。実際、そのとおりでした。職人たちは赤レンガを山の斜面へと運び上げ、一つひとつ手で積んで窯を築いたのです。私たちが心を寄せ、信頼する地元の案内人、小林さんは、今ではその築造を再現できる人はもういないと教えてくれました。

日本では、こうした仕事に注がれる時間や労力を「手間」と呼びます。文字どおり、人の手によって費やされる時間と労力のことです。普段使っているご飯茶碗をひと目見ただけでは、そこに込められた細やかな技や労力、時間までは、なかなかわかりません。けれど波佐見を訪れた後には、一つの器に注がれた手間が、実感を伴って伝わってくるようになります。以前、日本のものづくりの本質について学んでいたとき、日本酒「獺祭」の造り手の言葉を読んだことがあります。その背後にある労力、つまり「手間」を認めなければ、その手仕事を本当に理解することはできない、と。手間がなければ、ものは生まれません。それは、西洋ではしばしば非効率、あるいは時間の無駄として片づけられてしまう価値なのです。

Chapter 3/6
町全体で支えるものづくり

長崎県の公式ウェブサイトによると、波佐見の就業人口はおよそ八千四百人で、その多くが窯業に携わっています。私たちは、波佐見の人々がそれぞれの工程で、欠かせない役割を担っていることを目の当たりにしました。

この地で見てきたように、焼きものづくりには、もちろん自然が大きな役割を果たしています。けれど、波佐見がまるで一つの大きな家族のように機能する姿は、これまで見たことのないものでした。誰かが誰かの親であり、祖父母であり、いとこであり、甥であり、友人でもある。この産業は、家族や隣人のあいだで何世紀にもわたって受け継がれてきた、共通の仕事のあり方、分かち合う場所、そして信念の上に成り立っています。よく手入れされた機械の歯車のように、誰もがぴたりと歩調を合わせています。

旅の途中で私たちは、手仕事や制作工程の一部を機械に置き換えることはできないのだろうか、と考えることがありました。これは突飛な問いではありません。波佐見もまた、日本の多くの地方の町と同じように、人口減少と高齢化に直面しているからです。

ご飯茶碗の絵柄から一筆だけを切り取ってみると、ひと目には、さほど大きな意味を持たないように見えるかもしれません。けれど実際には、その一筆が、一本の線や花の茎がなければ、器が完成することはないのです。

波佐見の窯元、和山で、器を卸先へ出荷する前の最後の工程を担う年配の女性に出会いました。片手に器、もう片方の手に筆を持ち、器を回しながら、釉薬が薄くなったり、剥がれたりしているところがないかを確かめています。不良品として出荷されることのないよう、手で釉薬を塗り足し、もう一度焼くのです。

ありふれた仕事かもしれませんが、欠かすことのできない仕事です。大げさだと言われるかもしれません。それでも、これほどの心配りを機械に組み込むには、どこから手をつければよいのか、私にはわかりません。

分業制は、波佐見の人々を支える生態系となってきました。ほかの焼きものの町が少数の職人に頼る一方で、波佐見は町全体で分かち合う協業の仕組みを築きました。

その発想はシンプルでした。皆が同じ産業に携わっているのなら、力を合わせて、より速く、より多くつくればいい。この仕組みが、波佐見を日本のほかの焼きものの町とは異なる存在にしたのです。

大量生産に速さ、効率、品質が求められるなか、波佐見はその三つすべてに応えることができました。それぞれの工程を、自らの仕事に専念する専門の職人が担っていたからです。隣人は競争相手ではなく、仲間でした。一人ひとりが、仕事を次の工程へとつなぐ役割を担っていたのです。

陶石を磨く磨き職人、陶土を供給する陶土屋、型をつくる型屋、器の素地をつくる生地屋、焼成を担う窯元、そして絵付けや上絵の焼き付けを担う上絵屋。器に押す印をデザインすることに専念する職人さえいました。どの工程にも、それを担う人がいる。どんなに小さな役割にも、確かな居場所があったのです。

Chapter 4/6
波佐見をかたちづくる手

大量生産の工業製品として流通する器。その制作工程の多くが、実は体を使った手作業に支えられていると知り、驚きました。

私たちは、1889年創業の陶土製造所、コウダ陶土を訪れました。静かな敷地に、カン、カン、と音が響きます。一人の職人が地面に座り、小さな金槌で一つひとつの石を丁寧に叩き、赤みを帯びた部分を取り除いていました。白い陶石の中に残る、鉄分の痕跡です。

その職人はホンダさんといいました。石の山を前に、背中で手を組み、肩を丸めて立ちながら、私たちに話をしてくれました。彼が手がけていたのは、「磨き」と呼ばれる工程です。長年の日差しにさらされ、年季を重ねた肌が、二十五歳の頃から五十年にわたり、手で石を叩き続けてきた歳月を物語っていました。

想像に難くないように、焼けつくような暑さの中でも、身を切るような寒さの中でも、この技を振るうのは容易ではありません。ひたすら根気を要する、地味な仕事でもあります。しかも、手引きも説明書もなく、頼りになるのは体に刻まれた感覚だけ。注意を向けるという営みが失われつつあるように感じられる世界で、ホンダさんは一心に仕事に向き合っています。

どこまで削り落とすかを正確に見極めながら、無駄を出さないよう、石を適切な大きさに保たなければなりません。ホンダさんが一つひとつの石に注ぐ細やかな気配りを、機械が再現することはできないでしょう。

「どうして、この仕事を続けているんですか?」と、写真家のJunが尋ねます。 「わからないな……楽しいからかな」と、ホンダさんは小さな声でつぶやきました。 後に、陶土製造所の経営者であるコウダさんは、重い口を開くように、こう話してくれました。「あそこまで正確にできるのは、もう彼しかいないんです。」

仕事の専門化は、質の高い器を生み出し、波佐見を力強い伝統工芸の産地にしています。その一方で、それは弱さにもつながっています。一人ひとりが極めて専門的で、その人にしか担えない役割を持つことが、産業全体を脆くもしているのです。波佐見では多くの人が窯業に暮らしを支えられているため、一つの工程が立ち行かなくなれば、ほかの工程にも影響が及びます。今はまだ、その仕事を担える人がいます。けれど、その人たちがいなくなったら、どうなるのでしょうか。

生地づくりの工場で、アリサさんという女性が鋳込みの作業をしていました。Junが尋ねます。「もし今日から鋳込みを習うとしたら、何から始めればいいですか?」彼女は少し戸惑ったように、言葉を探しました。まるで、この仕事に手引きがあることを前提にした問いだったからです。

「まずは、生地の厚みを覚えるところからですね」と、彼女は答えました。

ジュンが、それはどうやって覚えるのかと尋ねると、彼女は再び少し間を置きました。

「感覚……ですかね。」

私たちは、彼女が型に泥状の陶土を流し込む様子を見つめました。その動きには、一定のリズムがありました。注ぐ、待つ、回す、返す。注ぐ、待つ、回す、返す。時計もタイマーも必要ありません。長年の経験だけが、次の動きを導いていました。型ごとに必要な厚みがどう変わるのかを、彼女は感覚で理解していたのです。後に、一人で鋳込みをこなせるようになるまで、五年かかったと教えてくれました。

フクシマさんは、型づくりの工場を営んでいます。彼は、自分にしか読み解けないような、何十年分もの記録をめくって見せてくれました。それは、工場で扱う一つひとつの型について、収縮率を鉛筆で書き留めたノートでした。

「窯や土によって収縮率がどう変わるかを記録しているんです」と、彼は説明します。「だから、型をどの大きさでつくればいいのかわかるんです。」

別の工房では、人々が机を並べて座り、作業をしていました。ときおり、仕上がった器の間を縫って歩く猫が、その手を止めます。それぞれの傍らには温かい飲み物の入った魔法瓶があり、好みの照明が置かれ、椅子には使い込んで平たくなった座布団が丁寧に敷かれていました。先ほど目にした人たちとほとんど同じ動きに、私は足を止めます。その手技は、いつまでも見入ってしまうほどでした。長年、日々繰り返してきた仕事によって、その動きはすっかり体の一部となっているのです。

共に働くことが、一人ひとりにとって意味を持つ理由は、いくつもあります。人と人の間に信頼が育まれ、仕事や手仕事が、皆を結びつけるものになります。事業として見ても、成功は一人のものではなく、関わるすべての人のものです。同時に、波佐見の生態系は、誰もが足並みをそろえて働いてこそ、成り立つのです。

Chapter 5/6
町の担い手が減っていくとき

波佐見の強さを生むものは、その弱さにもつながっています。一つひとつの役割を、ほんの数人、ときにはたった一人が担う町では、一つのつながりが失われるだけで、連なり全体が危うくなることがあります。

私たちは、マサト・タテイシさんという、粋な八十歳の男性が営む、昔ながらのジャズ喫茶「ダグ」を訪れました。彼は、喫茶店も営む、最後の現役の印の図案師です。

波佐見の皿に見られる印の図案は、ほとんどがタテイシさんの手によるものだと聞きました。和山でも、その一つを見つけました。彼が彫った、黄色いミモザです。その図案を生み出した人に思いを巡らせながら、私は指先でミモザをなぞりました。

後に、和山の社長は、タテイシさんがいなくなったらどうすればいいのかわからない、と話してくれました。「手彫りの印でしか出せない質感や模様、独特の味わいがあるんです」と、どこか寂しげに語りました。

同じ不安は、ほかの工場や工房にも広がっています。型職人のフクシマさんのもとでは、新たな注文は二か月待ちです。机の上のホワイトボードには、五月いっぱい、納期や作業の予定が赤字でびっしりと書き込まれていました。波佐見全体でも、彼と同じ水準で型をつくれる人は十人ほどしかおらず、その多くはフクシマさんよりもかなり年上です。

創業百三十年の陶土供給業者、ニシノ陶土を営む夫婦は、この十年で取引先が半分以下になったと話してくれました。体への負担が大きく、収入も不安定で、将来の見通しも立ちにくい仕事だとして、三人の子どもたちには家業を継がないよう伝えたそうです。

これらは、単なる高齢化や後継者不足の話ではありません。仕組み全体がいかに密接につながっているかを示す兆候でもあります。そして、その仕組みは一夜にして変えられるほど単純なものではないのです。

陶石の価格上昇は、年を追うごとに深刻な懸念となっています。波佐見焼の約八割に使われる天草陶石の採掘を担う人が不足しているためです。波佐見焼はこれまで、手頃で手に取りやすく、日本の家庭に欠かせない日常の食器として売られてきました。そのため、原料費の上昇を、そのまま販売価格に転嫁することは容易ではありません。

別の原料への切り替えが打開策に思えるかもしれません。けれど、地元の商社、西海陶器の社長は、こう説明してくれました。

「別の原料に切り替えようとしても、型や釉薬から焼成方法まで、すべてが今使っている特定の土に合わせてつくられているんです。町全体が一度に変わらなければなりません。それは現実的ではありません。」

今、波佐見は岐路に立っています。価格を引き上げるのか、自らのあり方を見つめ直すのか。それとも、新たな仲間を見いだし、コミュニティを築くことで、現状の課題にしなやかに立ち向かう力を育てていくのか。

Chapter 6/6
波佐見のこれから

知識や技術がたった一人に委ねられていることには、危うさがあります。地域の経済もまた、互いに依存し合っています。けれど、だからこそ波佐見には、独自の文化が根づいているのです。あらゆるものが共にあり、互いを育み、支え合おうとする文化です。

人と人、そして人と自然の関係は、深く結びついています。そのつながりは、日々の暮らしに根ざし、感覚として身についているかのように織り合わされています。私たちは、出会った人々の中に、その姿を見ました。ほかの地域から少し離れた町でありながら、波佐見の人々は心を開き、誠実さの感じられる見知らぬ訪問者を迎え入れてくれました。

中尾山で交流の拠点を営むハタナカさん夫婦は、その精神を体現していました。かつて焼きものの工房だった建物を、地元の人々が改修して生まれた場所です。二人のもてなしには、見せかけも気取りもなく、ただ静かなおおらかさがありました。

「こっち、こっち! ほら、ふきのとう。揚げて、みんなで天ぷらにしましょう。」

ハタナカさんの奥さんは、つぼみをつけた梅の木の下にしゃがみ込み、目を輝かせながら、私たちに笑いかけました。その後、使わなくなった窯を改造したオーブンでピザを焼いてくれました。話は次から次へと尽きることがありませんでした。

波佐見は、そこに暮らす人々なしには成り立たない。そのことを実感した私たちの心に、小林さんと焼きものの家業の継承について話していたときの言葉が、深く響きました。

「商売よりも、子どもたちには田んぼを続けてほしいんです。誰も手をかけなくなれば、土地は荒れて、放置されてしまいますから」と、彼は言いました。

その言葉は、波佐見のあらゆるものがどう結びついているのかを、小林さんが身をもって理解しているからこそ出てきたように感じられました。農業も自然も、何一つ、それだけでは成り立ちません。皆で共に守り、受け継いでいかなければならないのです。

では、波佐見にとって、守り継ぐとはどういうことなのでしょうか。波佐見の人々は、私たちに考えるための手がかりをくれました。小林さんの言葉にあったように、守ることや受け継ぐことは、必ずしも技術そのものだけではなく、地域の中のつながりをどう支え、持続させていくかということなのかもしれません。

和山で出会った、出荷前の器の不具合を手で塗り直していた年配の女性も、その仕事を誰かに任せることはできます。今、家業を営んでいる息子さんによれば、彼女はもう働き続ける必要はないのだそうです。

「でも、あの机に座って仕事をするのが好きみたいなので、あまり何も言わないんです」と、彼は笑顔で話してくれました。

現代社会では、私たちは自立し、自分の意思で選択しながら生きていると考えがちです。けれど、波佐見での経験は、私のその見方を覆しました。今も自らの手で一つひとつの器を確かめる和山の女性。八十代になっても印の図案をつくり続けるタテイシさん。そして、工場の作業台に向かい、何時間もかけて器に手で絵を付け、部品を取り付ける女性たち。皆が仕事を続けているのは、自分がもっと大きな営みの一部であると知っているからです。私たちは、誰も一人きりでは成り立たないのです。

波佐見の暮らしと窯業の未来は、外から人を迎え入れ、次の世代と共に新たな生き方を思い描くことで、つながれていきます。焼成を手がける陶房アオでは、イタリアで彫刻を学んだ若い日本人男性に出会いました。自身の制作に取り組むため、窯を使える場所を探していた彼は、今では波佐見に暮らしています。

また、スタジオ・ワニでは、ドイツ出身のミリアムさんと、夫のケンイチロウさんという国際結婚の夫婦にも出会いました。そしてもちろん、滞在中の私たちも、このコミュニティに温かく迎え入れてもらいました。

面白いことに、あるいは偶然にも、「はさみ」という響きは、道具の「鋏」にも通じます。町の名の本当の由来は誰にもわかりませんが、どこかしっくりくる言葉遊びに感じられます。

鋏は、二枚の刃が連動して初めてものを切ることができます。同じように、波佐見の焼きものづくりも、仕組みのすべてが一つのチームとして働かなければ成り立ちません。互いに支え合う生態系として営まれているからこそ、この町は開かれ、新しいものを受け入れようとしているのでしょう。新たな人々や関係が織り込まれ続けることで、波佐見は未来へと歩みをつないでいくのです。